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第4代アバディーン伯爵、ジョージ・ハミルトン=ゴードン(, , 1784年1月28日 - 1860年12月14日)は、イギリスの政治家、貴族。 はじめトーリー党(保守党)の政治家だったが、穀物法廃止をめぐる保守党分裂の際には自由貿易を奉じるピール派に属して保守党を離れた。ロバート・ピールの死後には代わってピール派の指導者となる。ホイッグ党が内紛を起こしていたため、1852年12月にホイッグ党とピール派の連立政権の首相となる。在任中にクリミア戦争が発生した。1855年1月に退任し、ホイッグのパーマストン子爵に首相職を譲った。 アバディーン伯爵位の法定推定相続人の地位にあった1791年から1801年までハッド卿(Lord Haddo)の儀礼称号を使用した。 == 経歴 == 1784年1月28日、スコットランド貴族の第3代アバディーン伯爵の息子であるハッド卿の長子として、スコットランド・エディンバラで誕生した。母はシャーロット(旧姓バード)〔。 1791年に父、1795年に母を亡くしたため、小ピットと初代メルヴィル子爵が後見人となって育てられた〔世界伝記大事典(1980)世界編1巻 p.130〕。 パブリックスクールのハーロー校、ケンブリッジ大学で学んだ〔〔。 1801年8月、祖父が亡くなり、第4代爵位を継承した〔〔。1805年に最初の妻キャサリン・ハミルトン(初代アバコーン侯爵の娘)と結婚〔。 最初の妻キャサリンが亡くなった1812年、彼は外務省に加わった。1813年にに就任し、ウィーンへ赴任し、イギリス=オーストリア間の反ナポレオンの同盟に署名した。しかし外相カスルリー子爵と対立しての頃に辞職した〔世界伝記大事典(1980)世界編1巻 p.130〕。1814年6月には連合王国貴族のアバディーンのゴードン子爵(Viscount Gordon of Aberdeen)に叙され、貴族院議員に列した〔HANSARD 1803–2005 〕。 1815年にハリエット・ダグラスと再婚し、1818年には勅許を得て、亡き先妻の姓を加えて「ハミルトン=ゴードン」の二重性に改めた〔。 10年ほどスコットランドの領地の経営に専念し、政治からは遠ざかっていたが、1828年にウェリントン公爵政権で、ついで外相として入閣する〔世界伝記大事典(1980)世界編1巻 p.130〕。 1834年から1835年の第一次ピール内閣では陸軍・植民地大臣として入閣し、1841年の第二次ピール内閣でも再び外相になる。清に南京条約を締結させてメルバーン子爵前政権下で勃発したアヘン戦争を終結させると、ヨーロッパ列強とアメリカと宥和外交を展開した。特にアメリカとの関係を重視して、ウェブスター=アッシュバートン条約を結び国境問題の解決にあたる。フランス外相フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーとの関係も強化し、タヒチ問題ではフランスに譲歩した。アフガニスタン問題でもロシアに譲歩している。外務省出身だったアバディーン伯は、長く軍事関係の役職をやっていた前任者で同年齢のパーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルとは正反対の外交観を持っていた〔君塚(2006) p.121-123〕〔世界伝記大事典(1980)世界編1巻 p.131〕。 1846年の穀物法廃止をめぐる論争では首相ピールの穀物自由貿易路線を支持した。結局穀物法は廃止されたが、保守党は分裂し、ピールは保守党内自由貿易派を率いてピール派を立ち上げた。アバディーンもこれに参加した〔。 1850年にピールが死去すると代わってピール派の指導者となる。1852年12月にダービー伯爵保守党政権が崩壊したが、ホイッグ党はジョン・ラッセル卿派とパーマストン子爵派の二大派閥に分裂していたため、首相を出すことができず、ピール派のアバディーンが組閣の大命を受けた。ピール派6人、ホイッグ7人、急進派1人から成る連立政権だった〔神川(2011) p.152〕〔。 アバディーンは平和外交家として知られていたが、東方問題でロシアとトルコが開戦すると、反ロシアの世論や閣僚(内相パーマストンや外相ラッセル)を抑えられず、1854年3月にロシアに宣戦布告する(クリミア戦争)〔神川(2011) p.158〕。だが戦争の長期化に伴い国民の支持を失う。わずか2年足らずで政権は崩壊し、閣内にいたパーマストン内相に戦争の采配をゆずった〔。 退任後、イギリスを戦争に導いてしまったと後悔し続けたという。1860年12月14日にロンドンで死去した〔。爵位と財産は息子のが継承した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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